アイドルゴルファーが自分との勝負に打ち勝って見えた景色「もう優勝したくない」【名勝負ものがたり】

プロテストから5年、悲願の栄冠をつかみ取る

歳月が流れても、語り継がれる戦いがある。役者や舞台、筋書きはもちろんのこと、芝や空の色、風の音に至るまで鮮やかな記憶。かたずをのんで見守る人々の息づかいや、その後の喝采まで含めた名勝負の数々の舞台裏が、関わった人の証言で、よみがえる。 特別にもらいました!スマイルクイーンのラストスマイル オレンジの揃いのユニフォームで声援を送る50人以上のファンが見守る中で、狙って初優勝を手にした松澤知加子。アイドルゴルファーならではの応援の中でのプレーは、自分との闘いだった。笑顔で振り返るツアー唯一の勝利の記憶…。 2位に1打のリードで臨んだパー5の18番。サードショットを手前10メートルに乗せた時点で、勝利を確信した。これを寄せて、ウイニングパットを打つ直前に、グリーンの向こう側に父の姿が見えた。子供の頃にゴルフを教えてくれた最初の師匠、清之さんに向かい、松澤は人差し指を立ててサインを送った。「これを入れたら1番だよ、という気持ちでした」と振り返る歓喜の瞬間。緊張することも、ナーバスになることもなく勝ち取った初優勝だった。 1989年にプロ入りした松澤は”中村寅吉最後の弟子“として注目された。その一方で、八重歯がチャームポイントの笑顔が人気となり、アイドルとしての地位も確立。多くのファンを魅了した。 ギャラリーだけでなく、主催者からも応援されていたのは、推薦で出場できる試合が多かったことでもわかる。初優勝したことの年に賞金ランキング27位となって手にしたのが初シード。それが意外に思えるほど、シードがない頃も主催者推薦で試合に出場していたからだ。 主催者推薦での出場に制限がない頃もあったが、松澤ばかりに推薦が行くため、問題になった。おかげで上限ができたのは有名な話だ。本人も、そんな状況を今では笑い飛ばすが、当時は楽しく享受していた。まだバブルの残り香漂う時代。大盛況のプロアマにも引っ張りだこだった。 「ちやほやされていた?そうですね。ちやほやしかしてもらってなかったお気楽ゴルファーでした。試合は推薦をもらって出るものだと思っていた。でも、気が付いたら周りの仲間たちがみんな優勝して盛り上がっていた。私は25歳を過ぎてもプロアマプロみたいになっていたのに」 同期の西田智慧子が5勝、原田香里が3勝、前田真希が2勝、肥後かおりが2勝…。自分とのギャップに気が付いた。 勝負の舞台となった冨里GC(千葉県)は、伊勢原CCで研修生時代を過ごした松澤にとって感触のいいコース。「点で攻めるゴルフは嫌いじゃない。みんなが難しい、というコースほどいい」と感じていた。ゴルフの調子も悪くないし「(優勝できないのは)気持ちの問題」と自己分析した。だから、この試合は最初から優勝を狙いに行った。 初日は2アンダーでプレーして、首位の日吉久美子に2打差の7位タイ。2日目に6アンダーをたたき出してトータル8アンダーとすると、首位の前田に1打差の単独2位に浮上する。最終日は、前田、4アンダー3位の小田美岐との最終組となった。 「最初から『優勝する』って決めて臨んでいました。私はなんとなくプレーしちゃったり、だれかと話しているうちにとりあえず打っちゃったりして、すぐにあちこちに気持ちが行っちゃうタイプ。そんな自分と戦うために、学生キャディ君に頼んだんです。私の気持ちがどっかに言っちゃいそうになったら『今日は優勝しに来ました』『今日は優勝しに来ました』って、ずっと言ってって」。 イメージトレーニングもしっかりとして備えた。その日の目標スコアを何度も数字で書く。18ホールの攻め方をシュミレーションもした。これをサポートしたのが、バスを仕立てて乗り込んだ大応援団だ。 「好きな色はオレンジって私が言ったからだと思うんですけど」と、みんなでオレンジ色を身に着けたファンたちが、最終組を取り囲む。その姿は、松澤にとっては強力な味方になったが、ライバルたちには重圧を与えた。「今でも前田に言われます。『あのオレンジ軍団、ほんとイヤだった』って」と笑う。 そんな気持ちも影響したのか。前田も小田も前半で2つスコアを落としている。松澤はマイペースでプレーして1バーディ、1ボギー。8アンダー単独首位でバックナインに入った。 「(優勝争いをしている中に)山岡さんがいたのも大きかったですね。言葉にはしないけど、頑張んなさいよ、とお母さん的に見守られている感はありました」。争っている相手ではあるが、励ますような目線。若手に対してベテランの山岡は、そんな雰囲気を出すことが少なくなかった。「だから、チャンスを逃してはいけない」と、自分に言い聞かせるようにプレーしていた。 「バーディを取るとみんなが喜んでくれるのがホントにうれしかった」と、応援にも背中を押された。大詰めの16番パー3で「バンカーにも池に入れないように」と、4位で打ったショットが自信を裏付けたのもよく覚えている。17番をボギーとして通算7アンダーとしたが、焦ることはなかった。 一緒にプレーしている前田は1打のビハインド。山岡と肥後かおりも6アンダーで先にホールアウトしている。だが、松澤は自分のゴルフを最後まで貫き、勝利を手にした。父に合図をしてウイニングパットを沈めた瞬間、大歓声が起こった。 「あの優勝で人生が変わった。みんなに覚えてもらって、今も仕事があって生活できているのはあの1勝があったから」と、しみじみと振り返る大きな転機。だが、それは、意外にもマイナスの要素もはらんでいた。 「優勝したら前よりももっと人から見られるようになっちゃって…」と、注目度が上がったことで嫌気がさしてしまったのだ。当時のマネージャーが次から次へと仕事を入れたこともあり「もう優勝したくない。ゴルフしたくない、って言ってたこともありました。人生で一番良かった優勝だけど、気持ちが複雑になった瞬間でもありました」と当時の気持ちを吐露する。 ぜいたくな悩み。だが、28歳になってやっと勝利への貪欲さが出てきたとはいえ、元々、ゴルフだけが人生ではない、という感覚を持っていた28歳の松澤は、それをどうすることもできなかった。「勝負の重みをよくわかっている人なら違うと思うけど、私はそれを軽んじているようなところがあったんです。もっと重みを知っていたら違ったのかな。時の運とか、勝負ごとに対しての意識が違ったのかもしれません。でも、あの試合で勝負していたのは自分自身でした」。 初優勝にもかかわらず、自分を分析して弱点のメンタルを克服し、狙って勝つことができる。そんな素晴らしい才能を持ちながら、優勝はこれが最初で最後になってしまった。本人は勝負を軽んじている、と自嘲気味に振り返ったが、ゴルフは人生の中の一つに過ぎない、という淡白さが、この後、勝利との縁を阻んだのかもしれない。 現在、ジュニアや後輩たちの指導をする中で、こんな風に自分の体験を伝えている。「私は参考にならないかもしれないけど、って言ってます。ただ、悩んでいるときに、私の話を聞く時が楽になるのはあるかもしれませんね」。近視眼的にゴルフに向かい合っているものにとって、時には救いになる。人生を変えた自分との勝負は、そんな日々にもつながっている。(文・小川淳子) <ゴルフ情報ALBA.Net>